私の手話との出会い

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私が初めて手話と出会ったのは確か小学校6年生の時に観た『名もなく 貧しく 美しく』と言う高峰秀子さんが主演の映画でした。のちに監督・脚本が松山善三さんと知りました。あの『一本の鉛筆』を作詞された松山善三さんです。

あまりに悲しくやるせない人生を歩んだ主人公が手話で会話するシーンを印象的に憶えています。ラストも悲し過ぎたのです。

次に手話と出会ったのは、東京は原宿の日本社会事業大学の生協の書籍コーナーでした。『わたしたちの手話』と言う新書版の手話テキストでした。表紙に埴輪の絵が描かれていました。1969年、大学1年生の秋でした。先日の広島県ろうあ連盟さんの事務所での合同実行委員会のときに事務所でこの本と再び出会ったときは、懐かしさとともに一瞬背筋が寒くなるような緊張も覚えました。私はあのときから全く一歩も踏み出していない。

この大学の生協の書籍コーナーで最初に購入した本が私を障害者運動にのめり込ませるきっかけをつくった糸賀一雄さんの『この子らを 世の光に』でした。この子らに世の光にをではないんだ!私の社会福祉にかんする甘い考えを脳天からぶち破ってしまう本でした。

その後、障害者運動なかで脳性小児麻痺や視覚障害者の人たちと寝食をともにしながらの運動生活が続きました。 盲ろうの障害者も仲間にいて、掌に文字を書いてのコミュニケーションでした。

当時、私たちは、養護学校義務化反対!障害児も普通学級に!と言うスローガンを掲げるという、当時としては超過激な勢力と目されていました。いまでは普通の要求ですが。

ですから、盲学校やろう学校の教師らとも交流はありましたが、盲学校の生徒や教師から点字は学ぶ機会はありましたが、手話を学ぶ機会はありませんでした。運動の中にろう者がいなくて、ろう学校の教師は手話ができませんでした。

ろう学校で手話を教えることはもとより、生徒が手話を使って会話することも厳しく禁じられていたのです。 その辺のことは本と講演でも触れられると思いますのでこれまで。 そんなこんなで、手話を学ぶことなくこれまで過ごしてきた私が、三たび手話と向き合うことになったのが、この講演会の実行委員会へのお誘いでした。

今、私は、他の実行委員の皆さまには迷惑至極なことに、もっとも動けない人間にもかかわらず、とても興奮しています。

なぜなら、この講演会を成功させることで得られる無限の可能性がはっきりと分かるからです。ひとりでも多くの方がこの無限の可能性を手にされますように。

『デフ・ヴォイス』を読んでから講演会に参加するか、講演会に参加してから『デフ・ヴォイス』を読むか、それはあなたの自由です。でもあなたは、きっと読むことになるでしょう。そして無限の可能性を手にするでしょう。

山下 徹

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