遠い記憶ー「デフ・ヴォイス」に思う

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美しい人だった。

祖母の甥っ子のお嫁さんになるから、私とはかなりの遠縁になるその女性は
旅行で近くまで来たから、と急に訪れた初対面の私を笑顔で玄関に迎え入れた。

私が住んでいた九州に単身赴任していたことがあり、つきあいがあった祖母の甥、叔父の方はまだ仕事で、もうすぐ帰るから先に家で待ってて、と手短なメールに添えられた住所を訪ねたのだ。

月並みな挨拶をする私に笑顔で大きくうなずきながら、その美しい人は、ゆっくりと「こんにちわ はじめまして」と口にした。

私はそのとき初めて、おじの自慢の奥さんがろうであることを知ったのだった。

さあ、入って、入って、遠くからよく来たね

そう、心に聴こえてくる笑顔で居間に私を案内する。
手持ちのケーキの箱を渡すと

ありがとう

という言葉と一緒に語る手は、いつか見たことのあるものだ。
高校の時せっかく授業で少し手話をやったのに、真面目にやらなかったことを悔やみながら、
精一杯ゆっくり 突然すみません と言って頭を下げてみる。

と、ピンポーンという音とともに突然白い光が目に飛び込んだ。
ドアの上に大きなフラッシュライトのようなものがあって、それが部屋全体を照らしながらくるくると点滅している。

「ただいま〜」

ランドセルをしょった女の子が二人、ばたばたと玄関の開く音とともに部屋に入ってくる。

「あ!誰だっけ、会ったことある、会ったことある!」

私を見るなり上のお姉ちゃんが声を上げる。叔父が一度、ハウステンボスに連れてきたときに我が家に土産を置きに立ち寄ったことがあるのだ。

「よく覚えてるね〜、元気だったかな?おやつあるよ。」

笑顔の母親に、少女が手話で説明をはじめる。
驚いた顔の母親が一瞬私を見て、それからまた手話で返事をする。
下の女の子もランドセルを下ろすと、とりだした水筒を母親に渡しながら、手話で一生懸命何かを説明している。水筒から水が漏れているから、壊れたと言いたいのかもしれない。

上の女の子が、台所の私が差し出したケーキを指差し何か母親に伝えている。
母親は大声で笑って、だめよ、というような手話をする。
子供達の手がぱちんぱちん、と当たる音が聞こえる。

幸せな、愛情に満ちた空気が漂っていて、私はその光景を眺めている。

ふいに下の子が、私のそでを引っ張る。

「あのね、おねえちゃんが、自分はもう5年生だからケーキは2つ食べていいか、ってお母さんに聞いてるの。でも、お母さんが、だめ、って言ったの。おねえちゃんずるいよね。」

時折 ええ!っと言いながらぽんぽんと威勢良く手話で母親と姉に自己主張しながら、彼女はちょこんと私の横に座る。

運ばれた紅茶とケーキを囲んで、和やかで、優しい時間がはじまる。

「お母さんが、何時間かかった?って」

子供達の通訳と苺を取り合う歓声を挟みながらカーテンから透ける夕暮れの日差しの前で、たくさんの手が寸劇のようにやわらかな音を立てる。

私はこの家では、マイノリティーなのだ。
弾け合う手が理解できなくて、私は時折部屋の様子に目をやる。

床に這わされたコードによれば、テーブルの横に置かれた赤い大きなランプは、FAXが来ると点灯する仕組みらしい。

「もうすぐ帰ってくるから、ご飯食べに行こうね」

私の肩にそっと触れると、そう書かれたボードを差し出して、奥さんが私の目を覗き込む。

「みんなでお寿司を食べに行くんだって!」

おねえちゃんと妹がソファーでそう叫んで飛び跳ね、母親が立ち上がって手を鳴らす。
ああ、あの手話はごめんなさいだ、と遠い記憶が思い出す。

ほどなく帰ってきた叔父とその日は楽しく食事をして、駅まで送ってもらった。
私のスーツケースを持って新幹線の中まで入ってきた叔父が、
コンコン、とホームから窓をたたいた奥さんと手で会話を交わして、うなづく。

「あ、おばさんに夏また遊びに来てくださいって伝えて、てうちのが。」

叔父が降りるとすぐに列車は発車し、子供達と奥さんが笑顔で大きく手を振る姿は、すぐに線路のむこうに消えていった。

家族のゴタゴタでその後顔を見ることがなかった子供達は、もう結婚して家庭を築いていて(奥さんが美人だったのもあり、見せてもらった結婚式の写真はそれはそれは二人ともきれいだった)、叔父と奥さんは孫の面倒を見ながら、幸せな老後を過ごしていると聞いている。

遠い思い出を取り出して、今 思う。

あの思い出は優しくて、そして、本当は、不安だった。

ほんの30分でも、マイノリティーへと変貌したこのときの記憶は
今でもはっきりととりだせるほど、私の心に強い印象を残した。

海外で言葉が通じない時とは又違う、
同じ国で、同じスペースで、優しさと心遣いではカバーしきれない
不安感、焦燥感。

あの美しい笑顔の人は、それを今まで何度味わったことだろう。

遠い記憶を手繰りながら、「デフ・ヴォイス」を読んで、そう、思った。

築島 渉

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